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小瀧達郎写真展
「VENEZIA」


小瀧達郎写真

©Tatsuo Kotaki

会 期 / 2012年11月6日(火)〜2013年1月31日(木)
時 間 / 11:00〜19:00
休 廊 / 日・月・祝
入場料 / 無料

*2012年12月27日(木)〜2013年1月7日(月)は年末年始休廊

内容紹介


ヴェネツィアの魔法にかけられた作者が、7年間にわたってヴェネツィアの風景やカーニヴァルをとらえた写真作品。600×900mmの大型のカラー・プリントを展示。

*カラー(タイプC プリント)、モノクロ(ゼラチン・シルバー・プリント)合わせて25点を展示。
*会期中、稲田 敦人形作品展「CARNEVALE」を同時開催いたします。

小瀧達郎写真



魔法のヴェネツィア
                                                                                                            小瀧達郎

 初めてヴェネツィアを訪れたのは1984年の春のことだ。ある雑誌のためにヴェネツィアのカーニヴァルを撮影するのが旅の目的だった。ヴェネツィアの美しさは想像していた以上で、こんな街が世の中に存在していること自体、信じ難いことだった。さらにこの街が海中に打ち込まれた数千万の木杭の基礎の上に築かれているという事実は、奇跡としか表現のしようがなかった。
 仕事で海外に出かけることの多いぼくは、旅先で自分の誕生日を迎えることがよくある。しかしこの年の3月3日は、忘れることの出来ない一日となった。
 激しい雷の音で目覚めたぼくは、朝食もとらずに雪の降る街へカメラをかついで飛び出した。カーニヴァルの最中だというのに街は静まり返っていて、家々の窓のブラインドは閉ざされたままだった。サンマルコ広場に行くと、激しく吹きつける季節風にのっておし寄せた海水が、広場を水浸しにしていた。
 日本に帰る女性を見送って、びしょ濡れでホテルに戻ったぼくは、やや感傷的な気分になっていた。ヴェネツィアに着いて以来、不思議な感覚に囚われていて、現実と自分を結ぶ糸がどこかで切れてしまったような気がするのだった。時の流れがやけに緩慢で、このまま自分がこの不思議な場所から抜け出せなくなるのではと本気で考え始めていた。
 その夜、ぼくは39度近い熱を出して、一晩中夢にうなされ続けた。迷路のような細い路地の暗闇で亡霊達が囁く声が夜通し聞こえていた。
 翌日はうって変わって、ぬけるような青空が広がった。サンマルコ広場の翼の生えたライオンが、いまにも空に飛び立ちそうに思えた。
 ヴェネツィアを訪れた人はきまって、魔法をかけられたようにヴェネツィアの虜になるという。この7年間に、年に2〜3回の割合で東京とヴェネツィアを往復したが、何がぼくをこうまでヴェネツィアに惹きつけるのか自分でもわからない。もしかすると、ぼくもヴェネツィアに魔法をかけられたひとりなのかもしれない。


                                                                                 『VENEZIA』筑摩書房刊 あとがきより






幻視のなかのカーニヴァル
                                                                                                              辻 邦生

 ヴェネツィアを訪れるとき、僕たちは観光客(ツーリスト)の仮面だけはかぶらないようにしなければならない。あの都会(まち)は観光客には何も見せてくれないからだ。できることなら、呪われた人として、追放者として、絶望を憧憬する人として、ヴェネツィアにまぎれこまなければならない。ラスキンの『ヴェネツィアの石』に触発された一九〇〇年のプルーストがそうだったように。
 多くの人がヴェネツィアを見たと語る。だが、百のゴンドラを見ても、迷路のような小路を辿っても、水路をきらめかすねっとりした波を眺めても、観光客としてヴェネツィアに佇むなら、それは、絵葉書にある水の都の外観にすぎず、単なるイタリア共和国の多くの都市のなかの、多少風変りな都会(まち)を見ただけのことなのだ。
 ヴェネツィアは死の都だという。北のヴェネツィアといわれるブリュージュにも死の匂いは濃いが、ヴェネツィアの死の匂いは、どこか黄金の棺に収められた東方ビザンツの皇帝の死臭に似ている。
 ここに誘惑されて死の悦楽に溺れていったグスターフ・フォン・アッシェンバッハの姿は、ヴィスコンティによって、マーラーの解体的な官能の痺れのなかで、仮面のように化粧した白いこめかみの上に流れ落ちる、白髪染めの染料の黒い蛇のようなしみを含めて、痛ましくも精緻に描き出されている。ぼくらはそれゆえに安易に、ヴェネツィアで死んだ人物が、あのように、死に嘲弄されながら、なお死の奴隷として、死神に跪くように死ぬものと想像しがちだが、それは違う。映画「ヴェニスに死す」の濃厚な蜜のような甘い死の匂いは、ひたすらヴィスコンティが絶望的追放者として地上に生きた結果から生れている。
 たとえばこんど出る小瀧達郎の写真集『VENEZIA』をめくってみるといい。ぼくらがここでいう死の匂いがどんなものか解って貰えると思う。ぼくらはその一頁一頁に、ほかの写真で見たヴェネツィアとまったく異種の蠱惑する美を見出して驚嘆するだろう。「ヴェニスに死す」の色濃い世紀末風俗の頽廃美とも違う。世紀末の美で覆うには、ヴェネツィアはあまりに偉大なのだ。
 小瀧達郎は死の匂いをアリアドネの糸にして、ヴェネツィアが千年のあいだ水路と迷路のなかに秘めつづけた美の陶酔に辿りついている。写真集『VENEZIA』は、異色のヴェネツィア風景ではなく、ヴェネツィアを何度も訪ねながら、結局は観光客の資格しか与えられなかったぼくらが、それでも、かすかに波の向こう側に、彩色硝子(ヴイトロー)の裏側に、きらめくモザイクの彼方に、予感しつづけた真のこの都会(まち)の濃艶な肉体を、まさしく鮮かに写し取っている。
 ヴェネツィアの蠱惑へと導く、ここで仮りに<死の匂い>と呼んでいるものが、実は、生の終りを告げる死ではなく、むしろ一回きりの生の切実な在り様(よう)を身に痛切に刻むものであり、生への愛恋を深め、相対死(あいたいじに)的に恍惚と生の深みに沈んでゆく契機であることは、小瀧達郎の視線を追ってゆけばすぐ解る。
 ヴェネツィアを覆う死の匂いは、事実、観光客にすぎぬ者にも、あるおぞましさをもって迫ってくる。たとえば運河に漂う異臭。あるいは、水浸しのために剥落した壁の上塗りの下に覗く、まるで老醜の肌にも似た変色した煉瓦。みどりの水草が狂女の振り乱した髪のようにへばりつく舟着き場の黒ずんだ石段。
 ある年の夏、ギウデッカに近い細い水路で女の自殺者が家から運び下ろされてきたとき、ぼくは、その若い女の土気色をした顔ほど、この頽落してゆく水の都会(まち)に似合うものはないと思った。絶望者の顔──それは時の流れのなかに自らも溺死者として?いているヴェネツィアの顔にほかならなかった。
 もしぼくらが地上にある都会の一つとして──つまりパリやニューヨークや東京やミラノと同じ次元にある近代都市として、さらに言い換えれば、地図の上に現実に存在し、アリタリアのジェット機やヨーロッパ横断特急の午後七時四分着やアウトストラーダを百七十キロで飛ばすフェラーリで到着できる観光都市として、ヴェネツィアを訪れるとしたら、たとえ冬の水浸しのサン・マルコ広場の戸板渡りを味わわないとしても、直接見ることになるのは“汚らしい水上都市”でしかないのである。ゴンドラを眺めながら、つややかに光るみどりの植込み越しに聞えるアコーディオンとヴェネツィアの舟歌を聞いていても、所詮そこで味わえるのは、現代ツーリズムが発明した健全な快楽――パリ・バイ・ナイトに見られるガラスの向うの歓楽、ナイロビの動物展望車から眺めるライオンたちの気だるい昼寝姿に似た危険なき悦楽にすぎない。そこでは、死は、大都会の交通事故死のレヴェルに切り下げられ、ヴェネツィアは都市衛生学の対象として分析されることになる。
 ぼくたちは何と多くの、この種の健全な、ヴェネツィア幻滅論者に出逢ったことだろう。彼らは、ヴェネツィアの衰退を見たつもりでいるが、自らの魂の衰滅に気がつかないのだ。ヴェネツィアを、もし地図の上で探そうとしたら、そんな都会(まち)は存在していない。すくなくとも小瀧達郎が見、そしてこの写真集に定着したヴェネツィアには出逢うことはないだろう。
 ぼくらはそのためには自らをこの現世から追放し、夢想の始まる国境地帯へとさ迷っていかなければならない。季節の風の匂いをぼくらがそこで感じることができたら――時計のチクタクした音を午後三時のミルクティのなかに聞くことが思わぬ美神の恩寵として、至福の柔かな温みが静かにぼくらを包むようになったとしたら――そのとき、ぼくらは夢想の国境を越えたと信じていいだろう。そこでは、蒼ざめたヴテブスクの画家が描くノスタルジックな雪の夜のように、女も男も、逆さになって、立っている。その夢想の国をぼくら追放者は時間の停止した空間を駆けるように駆けるのだ。そうすれば、ぼくらは間違うことなく小瀧達郎が眼にしたヴェネツィアに辿りつく。ヴェネツィアに着く方法はそれしかない。だが、こうして現われてきたヴェネツィアは、ぼくらが、なぜ地上に生れてきたか、を、魔法のような言葉で、そっと囁く。
「なぜ君が地上に生れてきたかって?理由はただ一つさ、永遠の快楽のなかに溶けるためさ」
 ぼくらは「サンマルコ運河」の青い水に黒い一艘のゴンドラを見るだけで、<永遠の快楽>とは何かを理解する。それは死に隈どられた生の快楽が遂に時間を超えた瞬間であるということを。ゴンドラの黒い影、それを漕ぐ一人の男。一面の青い波。いや、波が青いのではなく、夜景のように空間全体が青い。そしてこの青は時の消滅を意味する。無時間のなかをひたすら漕ぐ舟人――それはぼくらが夢想のなかで紡ぐ夢の布地と何と似ていることか。
 ムラノ島の白壁の家の前で、ぼくはかつて言い知れぬ懐しさを感じたことを思い出す。それは華やかな女王ヴェネツィアの近く、太陽の光を映す月影のように、慎ましく、漁村めいた家々を並べた島であったからだ。「ムラノ島」はこうした生活の臭いを柔かいフォーカスに包み、窓から窓に渡された洗濯物と、上塗りの剥落した煉瓦壁と、壁に沿って歩く三毛猫と、金槌を持って舟の修理をしようとする男と、前面に横に浮ぶ舟によって、温かく描き出す。しかしその生活の濃い臭いも、右手の洗濯物の赤い布と、舟縁の赤の対比によって、突然、ただならぬ謎めいた生活情景に変る。それはたとえば道化師が厚く塗ったメイキャップを落した、疲れきった素顔を見せた瞬間、とでもいうべきか。
 この現実の奈落があるからこそ、表舞台の仮構(フイクシヨン)が生命を持ちはじめるのだ。表と裏が一直線に繋がっていると、平板な人民芸術になり得ても、幻想のきらめきを通って永遠を目ざす道は閉ざされる。そのためにはあくまで道化師の疲れ果てた顔を、メイキャップという厚化粧のネガシオンで消し去らなければならないのだ。表と裏のこの断絶があって初めて、表の真実に血が通い、裏の真実が復活の光を浴びる。
 小瀧達郎が斜陽を浴びたヴェネツィアを好むのは、幻想に包むためというより、ヴェネツィア派の画家たちが気質的に黄金調の色彩のなかに裸婦を置くのを選んだように、この都会(まち)の本質に、大気を色彩の粒子で震わせる要素があるからだ。影の神秘さも斜陽の生みだすものだ(「ムラノ島」「トルチェッロ島」)。
 真昼の光のもとでリアリスティックに見つめられた「ヴェネツィアの水路」では、狭い水路にゴンドラが客を乗せて入ってくる。手前に空のゴンドラが俯瞰され、もう一艘の舟(モーター付)を男が舟着き場に舫(もや)っている。ホテルの窓から見るごく当り前のヴェネツィア風景だが、ここでも左手の建物の壁の濃い代赭(たいしや)色が、ゴンドラの座席(シート)の代赭色と引き合い、水路のゆらめく鏡の水面に、写真の外にある空の光が映っていて、全体が老いた男の素顔と仮面の双方をなまなましく浮びあがらせる。これは視覚の試練台の役割を果しているといえそうだ。もしぼくらが観光客の視線――実用に飼い馴らされた視線しか持たないとしたら、これは、まさしくホテルの窓の下の平凡な光景以上のものにならないからだ。もしぼくらがそうとしか見られないとしたら、何としてもこの現実から、ぼくらの魂を救い出す必要がある。かつてプルーストが、たとえ明日死ぬことが解っていても、ヴェネツィアに向かって旅立つといった、あの胸の高鳴りを取り戻すためにも、である。
 小瀧達郎は、近代生活の二重三重の散文性のなかで完全に夢想する力を奪われ、日常の惰性のダルな廻転に感性のはしばしまで鈍磨されているぼくらに、小声で、そのことを囁いているように見える。そしてごくありふれたヴェネツィアグラスのアール・ヌーヴォー風の模様(「バルサモ・ステラの花瓶」)によって、ぼくらの心を誘惑してくれる。
 おそらくこの写真集の圧巻は(ぼくはそれを言わずに今まで我慢していたのだが)カーニヴァルの人々のこの世ならぬ幻想美だろう。変幻するヴェネツィア風景を見たあとで、これらカーニヴァルの仮装人物たちに出会うと、胸の奥に、一すじの割れ目が、走るのを感じる。甘く疚く恋の痛みに似た亀裂だ。
 赤いマントをかぶった悪魔にあなたなら魅惑されるかもしれない。あるいは黄金の甲冑に顔を隠した中世の騎士にか。ここにはヴェネツィアの謎をそのまま仮装のなかに凝固させた姿が、夏の夜の夢のように、次々と現われる。トランプを粧った楽しげな少年、ピンクの兎になった大人たち、欄干に腰かけるピエロ、柱廊の暗闇を背景に浮かぶ三日月の美女、怪傑ゾロよろしく剣を戦わす少年、白い仮面、濃い隈どりのなかから妖艶に光る眼、黄金仮面をかぶるフィレンツェ風俗の若者、粉雪の舞うなかを青いマントを翻して走る白い仮面の男たち、女たち、雪にまみれて出逢う仮装の恋人たち……。
 まるで写真集が机の上で輪舞(ロンド)を始めたような幻想をぼくは味わった。いや、写真集が踊ったのではない。ぼくの魂が突然カーニヴァルの雑踏に酔い、変幻自在のピエロ、騎士、将軍、パパゲーノ、兎、楽器、トルコの太守のなまなましい映像に眩惑されたのだ。そこにはカルペンティエールの『バロック協奏曲』に描かれた、ヴェネツィアのピエタ救貧院に響くヴィヴァルディの急テンポのメロディが終りなく鳴っている、「マミータ、マミータ、ベン、ベン、ベン」というように。
 ぼくたちはいつか現実からの追放者となってヴェネツィアの小路から小路へとさ迷っている。ちょうどヴェネツィア生れのマリ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローエ公爵夫人がリルケと歩いた小路と広場が、いかに二人がその後探索しても、二度と辿ることができなかったという神秘な神隠しの挿話のように、ぼくたちは、小瀧達郎の『VENEZIA』のなかで限りない神秘の小路を横切るはずである。それはひょっとするとリルケたちと同じく二度と見出すことのできない官能的陶酔の渦であるかもしれない。しかしその美の渦の涯に、ビザンツの黄金都市の幻影を見たとしたら、その人はいつかかならず、観光客(ツーリスト)としてではなく、夢想の国境を横切る人として、遥かな眩暈の都会(まち)を訪ねてゆくにちがいない。


                                                                                 『海峡の霧』辻 邦生著 新潮社刊より





作家プロフィール


小瀧達郎(こたきたつお)

1972年  東京造形大学写真科卒
            個展「日本、その内なるものに向けて」ニコンサロン
1976年  個展「暖簾」ニコンサロン
1982年  個展「ブライトン・ドーヴィル・オンフルール」
            ツァイト・フォト・サロン
            フォトキナ・フォトアート I (ケルン)に出品
1983年  写真集『巴里の大道芸人』(文・海野 弘)求龍堂 出版
            個展「巴里の大道芸人」大丸デパート東京八重洲店
            個展「巴里の大道芸人」ミノルタ・フォト・スペース新宿、広島、福岡巡回
1984年  個展「巴里の大道芸人」ラフォーレ・ミュージアム松山
            国際交流基金アジア伝統交流‘84「旅芸人の世界」のオフィシャル・カメラマンとしてハンガリー、
            韓国、タイ、インドの旅芸人を撮影
            同年『マリ・クレール』日本版のグラビア創りに参画、故安原顕氏(中央公論社編集者)らと共に
            同誌の黄金期を築く
1985年  「旅芸人の世界」朝日新聞社(共著)出版
            東京造形大学非常勤講師となる
            つくば写真ミュージアム‘85「パリ・ニューヨーク・東京展」出品
            「日本現代写真展」 スペイン文化庁主催(スペイン巡回)出品
            「日本の建築家」(全7巻)(株)丸善 出版
1987年  個展「小瀧達郎 ポラロイド写真日記」ポラロイドギャラリー
            準朝日広告賞受賞
1991年  写真集『VENEZIA』(文・塩野七生)筑摩書房 出版
1992年  個展「VENEZIA」
            ギャラリー・ビア・エイト(バーニーズ・ニューヨーク 新宿店)
1993年   『私の二都物語 東京・パリ』(辻 邦生と共著)中央公論社 出版
1994年  個展「風の余韻」BAUHAUS GALLERY
            『マリ・クレール』主催写真展「パリ」出品 銀座プランタン
1999年  「大辻清司と15人の写真家たち」東京造形大学横山記念館マンズー美術館
            個展「静溢(せいいつ)なる風景」北鎌倉小瀧美術館
            個展「ヴェネツィア」浜松駅メイワン
2000年  個展「ヴェネツィアのカーニヴァル」北鎌倉小瀧美術館
2001年  個展「静溢(せいいつ)なる風景 2」北鎌倉小瀧美術館
2002年  「ポラロイド写真の世界―時を超えて―展」出品 ポラロイドギャラリー
2003年  個展「ガーデン」北鎌倉小瀧美術館
2004年  「ノースマリン・ドライブ」 ニコン・ウエブ・ギャラリー
2006年  東京御茶ノ水に写真専門ギャラリーgallery bauhausを開設
2009年  個展「VISIONS OF UK 英国に就いて」gallery bauhaus

Official Web Site http://www.tatsuo-kotaki.com

*文中の「静溢(せいいつ)」は塩野七生氏による造語です